「神は存在するか? その10」
(ケゾえもん 2023.6.9. 記)
何者かがこの宇宙を作ったのではないか?という疑惑をテーマにこの話を書いている。その何者かを便宜上、全能の存在と書いているが、ときどき言った様に、私はその存在が言葉そのままに全能だと思っているわけではない。アーサー・C・クラークは充分進んだテクノロジーは、魔法にしか見えないと言っていた。1000年前の人に4Kテレビを見せたら魔法にしか見えない。
宇宙創造とか言うとすぐ神とか全能とか持ち出すが、それを言うと無限大の能力を意味してしまう。私が言う<全能の存在>をちゃんと言うと<われわれが見てあたかも全能に見える存在>ということになるだろうけどあまり長いことばだと面倒なので、とりあえず彼女を<全能の存在>と呼ばさせてもらう。
ところで、おもしろいのがこの世が作られたにしろ、仮想現実にしろその中でわれわれに自律的に考えることを許しているということだ。この場合、全能の存在は我々の頭の中をコントロールできない。そもそも自律性を許してるんだもの。その場合、全能の存在は我々に全能の存在を隠すつもりか隠さないつもりかという疑問が当然出てくる。私は隠すつもりなんだと思う。
宇宙をなにものかが作った説には、この世は仮想現実である説がある。説明のため仮想現実だと考えてみよう。
たとえば我々が交通の研究をするためそのシュミレーションをコンピューター上でしようと思ったら単純に自動車の動きをシュミレートすれば良い。しかしもしあなたがとんでもなく進んだシュミレーションをする能力があってその中に(自分で考える)人間を登場させて実際に運転させるとすると自動車の動きを再現するだけでは済まない。どうしてその車が動くのか、登場させた人間が納得しないと、その人間は車から降りてボンネットを開けて(ボンネットがあればの話)どうしてからっぽなのに車って動くんだろうねと考え込んでしまうだろう。
この場合2つ方法がある。
ひとつはシュミレーターの中の人間に「ハローハロー、私は神です。いま交通のシュミレーションをやっています。深く考えずに運転を続けてください。そうしないと罰として電撃をくらわせますよ」と言うこと。
もうひとつはシュミレーションであることは隠して、矛盾のない車を与えること。つまりボンネットを開けるとエンジンやバッテリーがちゃんと入っていて車ってこう動くんだとその人間に納得させるお膳立てをしないといけない。ようするにシュミレーションの中に考える存在を加えると、事態がとてもややこしくなるということだ。知性を持つ存在というのは特別なのだ。
この世は我々が理解できる範囲、観測できる範囲では矛盾なく組み立てられている。従って、全能の存在がいると仮定した場合、我々に自分の存在を隠そうとしていることは明らかだ。家を建てるとき屋根裏や壁の裏は普通仕上げをしない。見られることはないからだ。全能の存在だって同じだ。だれだって無駄な努力はしたくない。
そうか、彼女は隠そうとしているのか。ではファイトを出してそれをあばいてやることにしよう。
ケゾえもん
続く
※アイキャッチ画像の出典はこちら。