「神は存在するか? その7」
(ケゾえもん 2023.5.24. 記)
この連載のその3はオタク過ぎておもしろくないと読者に文句を言われた。それはそうかもしれない。もともと周期律表というのがオタクの権現みたいな存在でそれが化学の教科書の第1ページにこれを理解しなければ承知しないよと鎮座しているのだ。
この周期律表が編み出された1869年の状況をもう一度話すと原子は究極の単位で分解できないと思われていた。しかし化学はある程度進歩していて、たとえば水が水素と酸素の化合物であることは1781年キャヴェンディッシュにより最終確認されていた。そしてわれわれの周りにあるすべてのものは原子または原子によって作られた化合物であるということまではわかっていた。だから原子は世の中のすべてを作る特別な存在だと思われていたわけだ。
(キャヴェンディッシュは物理の教科書にも載っている、初めて重力の強さを計測したすごい人だよ。)
そこにメンデレーエフの周期律の発見だ。まだ発見されない原子があることがわかり、しかもその原子のだいたいの性質までわかるってことなんだから神が作りたもうた物質の究極の単位の秘密をみつけたと興奮するのも無理はない。
しかし今はもう違う、原子は陽子と中性子と電子でできていていて究極の単位ではないことがわかっている。周期律といってもたとえば11族に銅、銀、金が並んでいたとしても結局、銅と金は違うものだ。すべての原子が発見された今、発見されていない未知の原子の性質がわかるという恩恵ももはやない。
いつまで今世紀最大の化学の発見の周期律表にしがみついているのか。原子に周期律が存在するのは化合物が作られるのは電子の結びつきであり、その原子の一番外側の軌道の電子(価電子という)が化学反応に関係し、その価電子の状態が同じものが周期的に現れるということによる。
ところが今は電子の位置は二十世紀に入り大発見を連発する科学のエース物理学上の発見「電子は原子核のまわりに確率として存在する」に基づいていて、その価電子の存在はシュレディンガー方程式というものを解かないと出てことないということがわかったのだけど、これは高校生には手に余る。
ところが化学の先生方は周期律表を手放したくないし教えたくてしょうがない、周期律表関連の問題を出したくてしょうがない。なのでシュレディンガーの方程式を高校生に理解させるのはあきらめるとして、とりあえず価電子および電子殻(これの説明はぶく)を丸暗記させるということを決定し今に至る。本当にばかげている。全原子の価電子と電子殻を丸暗記させてなんの意味があるというのか?
周期性にこだわるので周期律表は原子の表としては非常にわかり難いものになってしまっている。結局1個づつ陽子が増えていくだけなのだから周期律表は捨てて陽子の数の順番で単純に並べて表を作れば極めてわかりやすいし、原子というものの全貌がむしろよくわかると私など思うのだ。
今の周期律表ときたらもはやシュレディンガー方程式を解かなくても価電子、電子殻がわかる早見表の感がある。突然にわけのわからないブランクがあったり、突然なんとか系なるものが出たり、だいたいプラチナとダームスタチウムが同じ族だとわかったところで高校生はおろか化学の研究者にすらなんの役にもたたないだろう。
さらに言えば電子殻という考え方はボーアモデルと言って正しくないので、一応正しくないとは教えているのだけど、こんどはシュレディンガー方程式をいろいろいじって電子の存在確率90%のエリアを設定するという姑息なことをして、それをあたかも実態のあるエリア(電子雲と名付けている)の様に言い、ひとつのエリアに電子が入れるのは2つまでとか安定な方に順番に電子は入るとか、電子殻モデルと同じ様なことをまたぞろ言い始めて、それを真理の様に教えている。こんなことしてるからね、科学好きの私が化学が大嫌いだったわけだ。
さて化学に文句を言ったが、こんどは私は全能の存在に意見がある。原子はちょっと作品としてはいただけないのではないか?ということだ。
人間を作るのに世の中に複雑性がなければならなかったという事情はわかる。その複雑性を作るために原子を作り、その違いを陽子と中性子の数で作ろうと思った、それもわかる。しかしそれにしてもそれも陽子中性子合わせて40個くらいがまあ許せる範囲なのではないのだろうか?たとえば原子番号92のウランまでいっちゃうと陽子中性子合わせて238個もある。もうこれではぶつぶつして気持ち悪いし美しくない!
(続く)
ケゾえもん 記
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