「最近ドラえもんに元気をもらっている」
(文=ケゾえもん)
ドラえもん主題歌の歌詞を知っているだろうか。
いや、「こんなこといいな」でなく、最近導入された星野源の歌う現代的なやつでなく、「あたまテカテカ」のやつである。
調べてそうなんだと思ったのだけど、この作詞は藤子不二雄となっている。そしてこれも知らなかったけれど歌は3番まであって、
ドラえもんの欠点をあげつらう。
それがどうしたと打ち消す。
ドラえもんの長所を言う。
どんなもんだいと自慢する。
という構造となっている。
ドラえもんの欠点だが、「たんそくモタモタ」とか「すがたブクブク」とかえらい言われよう。そして長所は「よじげんポケット」を持ってることとか「まるいあかはなちょいときかせて」とかたわいのないものとなっていて本当ならどうということもない主題歌なのだが、ところが1番がそうではない。
これ藤子不二雄は意識してやっているのか?それとも偶然そうなったのか?1番はとんでもない大傑作になってしまっているのだ。
まずあたまテカテカというのはこれは欠点でもなんでもない。人間のあたまがテカテカならそれは禿をあげつらっているのだろうが自動車のボンネット、ロボットの頭などがテカテカなのはむしろ長所ではないか?
そして、次にもっと外してくる。なんと「冴えてピカピカ」と来る。まさしくこれはドラえもんのAIが超高性能だと言うことを主張しているわけで、これは短所どころか長所だ。しかもそれが容姿と関係ないことを言うことで二重に外されてしまうわけだ。
ところが次の歌詞が「それがどうした ぼくドラえもん」ときちゃうんだから、もう何がなんだかわからなくなり、この独特のノリの虜になってしまう。
次がドラえもんの本当の長所を言う場面だが、ここが実に泣かせる。
「未来の世界の猫型ロボット」
と自分の実に正当な出自をおごそかに明らかにして来るのだ。もうこの言葉の前にはひれ伏すしかないではないか。そして限りなく誇らしい気分にならないか?
自分の出自を遂に明らかにする歌と言えばリヒャルト・ワーグナーの歌劇ローエングリンのグラール語りと呼ばれる場面がある。
歌劇「ローエングリン」は、超自然の力をあやつる白鳥の騎士ローエングリンが王子の姉エルザを救うために現れエルザと結婚することになる。ローエングリンは決して自分の身分を聞いてはならぬと言う。鶴の恩返しとか旧約聖書のりんごを食べてならないとか昔話によくある、決してなになにしてはならぬと守るのが難しい条件を設定してくるやつだ。それで例によってのっぴきならぬ事態に引き込まれ遂にエルザは「あなたはどこから来て、何者です?」と聞いてしまう。ローエングリンは当然、あーあ、聞いちゃった聞いちゃったと自分は帰らなければならないと言い出してエルザを悲しみのどん底に引き落とす。そして最後の幕でエルザ、国王、民衆の前で去る前に歌うのが「グラール語り」と呼ばれる部分でワーグナーのオペラ群の中でもとりわけ印象的な歌なのである。
■ローエングリン:
(神々しく変容した表情で宙を見つめながら)あなた方が近づくことのできない遠い国・・・
中略
奇蹟をもたらす聖杯の力を新たに強めるのですが、その聖杯こそ「グラール」・・・グラールによってこそ至福にして至純の信仰が騎士団に与えられるのです。
中略
それゆえに騎士を疑ってはなりません。
正体を知れば、騎士は去らねばならぬのです。
お聴きください・・・これこそ禁問への答えです!
私こそグラールによって遣わされた者。
わが父パルシファルは聖杯奉仕の王であり、私はその子ローエングリンと言うものです」■ハインリヒ王、男達、女達:
おーもったいなきご身分のことを聞くと随喜の涙に目も泣き腫らされます。
私は敢えて言う。「未来の世界の猫型ロボット」の部分はドラえもんによるグラール語りだと。
そして「どんなもんだい僕ドラえもん」とカルミネーションするわけだ。
最近コロナでいらいらさせられると、このドラえもん主題歌1番を大きい声で歌って元気をつけることにしている。
歌:大山のぶ代
作詞:藤子 不二雄
作曲:菊池俊輔
あたまテカテカ さえてピカピカ
それがどうした ぼくドラえもん
みらいのせかいの ネコがたロボット
どんなもんだい ぼくドラえもん